すごく唐突なお話で恐縮してしまうのですが…。
昨日のことです。クルマを運転していまして、ちょうど六本木一丁目のあたり(首都高の真下)に差し掛かったあたりで私の視界の端にある紙辺を確認しました。
運転中ってけっこう注意力が働くので小さなものでも見つけられるのでしょうが、それは「明らかにお札(1万円札)」だ」と。
風に舞っていてすごい勢いで移動していたのに、私の動体視力ってすごいな。たぶん「お金」への執着心がすごいせいもあるかも。おそろしや…。
どうしたかって?
いま一つお金だという自信がなかったし、クルマの流れもあるのでそのまま通り過ぎてしまいました。私の後ろのトラックがハザード(非常点滅灯)を付けていたので、「ああ、やっぱりお金だったんだ…」と確信しました。
まあ、拾ったところで届けなきゃいけないし、事故を起こしてもいけないので自分の行動には後悔していません。
そのあと、しばらくお金のことを考えていました。
一瞬でわかるくらい特別な存在であるお金。赤瀬川原平が「どうして高額なものが紙で、低額なのがコインなんだろう」と書いていましたが、彼の見解では「破れたり燃えてしまうものだからこそ、大事に扱うから」という非常に大人なものでした。
でも、いくら大事にしていても風に舞ってしまったらもう私のものではなくなるのだなあと、その時思ったのですね。トラックの運転手さんが警察に届けたか着服したかはわかりませんが、「これ、私のです」と証明する手立てはないのでは。
そういう意味では、キャッシュのデジタル化は「自分のお金である」という証明でもあるのです。あ、みなさんとっくに気づいているか。
しっかし、不思議な存在だなあお金って。