デザイナー羊男の毎日

日常の「気づき」のおはなし。ごゆっくりどうぞ。

平和について考える 〜ロシア、ウクライナとウィル・スミス

こういうのは、あんまり読みたくないんだろうなと思います。でも今日は自分のために書こう。

連日報道される戦争のニュースに、どうも気持ちが晴れない「やりきれないな」という悲しさが自分の中にあります。

 

ロシアの蛮行についてどうだとか、国連安保理の軍事的制裁をどう考えるかとかを論議するつもりは(ここでは)ありません。

ただ、一度「平和について考えておかなきゃ」と誰に言われたからでもなく、それでも強く思います。私の脆弱な語彙では語られる範囲も少ないとは思いますが、文章にすることで考えをまとめておく意味はあるかと。

 

私が生まれて初めて目にする「身近に存在する戦争」は、親から聞かされた過去の戦争と何ら変わりないものでした。そこにあるのは、掛け値なしに暴力による制圧です。

どれだけの事情や言い訳を並べたところで、また戦争のスタイルが変化しようとも、現地に血が流れるのは変わりません。今までたくさんの人が作り上げてきた街や公共物、文化、人の営みに関わるものが破壊される恐ろしさも、私が初めてリアルに目にするものでした。それがこの21世紀におこなわれている事実に、「人の進歩のなさ」に、やるせなさを感じざるを得ない。

 

このやるせなさは、平和への渇望を私に呼び起こします。

結局のところ、すべての「人がする行為」は平和がベースというか絶対条件と言えるのではないかと。農林水産業、IT・製造業、サービス業を含むあらゆる経済行為、そして文化や音楽・芸術、果ては国の政治も「平和」でなくては何の意味もないものです。

 

前にラジオで山下達郎が「僕たちがやってる音楽なんて平和じゃなければ成立しないんですよ」と言っていた意味がいま、身に染みてわかります。

これは達郎氏の音楽性に関係なく、攻撃的なパンクバンドでも同じではないかな。

いや、パンクや反戦歌も平和だからこそ存在できると断言できます。

 

並べて言うのもおこがましいですが、私がやっているデザインだって平和でなくてはやっていけません。

たぶん、これを読んでくださっているあなたの仕事もそうですよね。

 

そんな戦争のニュースに混じって、ウィル・スミスのアカデミー賞受賞式。これもいろんな見解があるのでしょう。ふざけたプレゼンターに同情するつもりはありませんが、今の私にはやはり「争いは何も生み出さない」という感想になりそうです。

 

ずいぶんと理想論的で青臭い文章になってしまいましたが、「安心して暮らせる」というあたりまえを、今一度噛みしめたいなと思います。

そして、今の仕事で社会に貢献することが何かの形で平和につながればと願っています。