槇原敬之が今、どういう状態かは関係なく彼のつくった歌について書きたいなと思います。これについては前に書いた自分の文章を引用します。
今までも不祥事によって社会的制裁を受けたアーティストはいました。華やかな業界なので特に目立つのかもしれませんが。
彼らの不祥事と、その成果物(音楽)には因果関係があるのでしょうか?それは、誰にもわからないし、たぶん本人も。
だからといって、「音楽に罪はないんだから」と容認すべきとは考えていません。
ただ、私たち観客とアーティストの接点はやはり「音楽」であるべきと思います。
アーティストの私生活を評論したい方は、ゴシップとしてすればよろしい。
私はそこに興味がないし、公式に発表されたものも「一つの事件」として別軸でとらえています。
世の中にはいろんな人がいますので、「そんな不祥事をおこすやつの音楽なんか聴きたくない」という人もいることでしょう。そういう人は買わなければいいだけの話です。
選挙と同じで、その音楽を「選ぶ」のは私たちなのです。(ただし、不祥事アーティストの音楽を聴きたくない人の耳に、その音がはいらないような配慮は必要ですね。)
CDや配信の非買運動をしたり、アーティストの過去を暴いてヒステリックに拡散するのは自由ですが、あまり意味のある行為とは思えませんし時間がもったいない。
その労力を、新しいアーティストの魅力を見つけることに充てたほうが世間は明るくなりそうです。
このくらいでいいかな。
で、槇原敬之の「LOVE LETTER」です。
これほど、人に評論されることが多い歌も珍しいです。「いい歌」なのは間違いありませんが、ちょっと私小説っぽくてわかりにい部分が多いので「読み解く」面白さがあるのかもしれません。歌詞については引用できないので興味のある方は検索してください。
歌詞は、①数分前の場面(電車のホーム)、②数日前の場面(カセットを渡す場面)、③現在(駅からの帰り)の三つに分かれています。時間の感覚が微妙にわかりにくいため最初はピンときませんが、何度も聴くうちにわかってきます。場面の転換はリズムや楽器によって上手く章立てされていますね。こういうのが音楽っていいよなー。
あと、接続助詞の使い方が秀逸なんです。同じセンテンスが何度も使われるのですが、
●君は遠くの町にいってしまう。
●君は遠くの町にいってしまうのに、
●君は遠くの町にいってしまうから、
三つとも、その後には「何回も何回も書き直した手紙は、ぼくのポケットの中」と続きます。事実→焦り→覚悟と主人公の気持ちを助詞で表現するのはすごい手腕だなと素直に思えます。
三つの乗り物
私が今回言いたいのは、歌詞に出てくる3つの乗り物です。
●電車
●バイク
●自転車
それぞれがその場面の中で特徴的に使われています。
電車は社会性の乗り物です。いつも時間通りに反復運動を繰り返す電車に人が合わせる。就職で遠くの町に行ってしまう彼女になす術がない主人公のやるせなさは、「社会」というバックボーンがあって成り立つものでしょう。
バイクはちょっと陳腐ですが「自由」の象徴かな。初めて原付に乗った時の「どこへでも行ける」あの感じはやはり忘れられない。「カセットを渡す」という主人公がおこした行動。これはバイクでなくてはならないような気がします。
そして自転車です。バイクで駅まで行ってもよさそうなものですが、ここで自転車を出したのはやはり「覚悟」の表現ではないかな。自分で漕ぐからね、自転車は。遠くに行っても見守りたいという主人公の気持ちを表すのは自転車に他ならないと思います。
通勤時にそんなことを考えていました。
最近は電車の中で音楽を聴かないので、覚えている歌の歌詞を思い出したりしています。駅のホームでふと「LOVE LETTER」がうかんで、自分なりの解釈をしてみました。それだけなんです。