デザイナー羊男の毎日

日常の「気づき」のおはなし。ごゆっくりどうぞ。

長生きすれば傷多し

長生きすれば傷多し、でも早死によりはマシかもしれません。

昨日の記事はちょっと生々しい感じで心がざわついたりしたのですが、後で読み返しておもしろいのは、こういう「傷」のあるものなんだなあ。当たり障りのないものはかんたに書けるけれど、あんまり面白くないのであります。

だからといって、毎日傷を負っていたら、体がもちません。絆創膏いくつあればいいの?って感じ。ま、絆創膏で済むくらいの傷なら良しとしましょ。

では、世に言う「おもしろい小説やエッセイ」って書いた人はなかなかの重症なんじゃなかろうか?他人事ながら心配です。

ま、何に付けプロってすごいよなあ。

そして身を削ってこそのプロとも言えそうです。デザイナーだってそうなんだから。

おっと、この話はまたあらためて書きます。

包帯とガーゼを用意してね。

 

今日は書きたいことを書く

何かを吐露することは、それだけでたぶんストレスの発散になるのではないかなと思います。日記の効用もそういうものが多くを占めているような気がするしね。

「人に読まれない」のが日記の特徴ではあるけれど、本当にそういうものが存在するのかちょっと疑問ではあります。どこかで「誰かに読んでほしい」と思っていないと文章って書けないのじゃないでしょうか。

毎日更新しているこのブログも、やっぱり不特定の誰かに向けて書いています。いつもはネタどうしようかとか汲々としているのですが今日は何もない、ただ自分の感じていることを書いてみようかなと。これは不特定の誰かだからこその所業ではありますね。

 

承認欲求の強い人

ここ数年なのかな。人がすごく「認められたがっている」状態にあります。

SNSの「イイネ」の数云々というのは、もう手垢にまみれている感はありますが、とにかくいろんなところで「私を認めてください」と非常に五月蠅い。

「私はこんなにがんばっているのに」

そうだね。でもそれ、人に言うこと?

「これ、私がやりました」

ありがとう。知ってるよ。それ言わなければ株が上がったのにね。

 

挙句の果てには人が作ったものにさえ評価を求めています。

「この歌はもっと評価されるべきだ」

「この動画はもっと評価されるべきだ」

あなたと作者は親戚なのですか?評価されたら何がうれしいんだろう?

いや、純粋にわからないのですね、私。

 

自分のために怒ってほしい人

管理職時代にすごく感じていましたが今でも多いです、こういう人。

「製造部の○○さん、ひどいんですよ」

「同僚の○○さんにこんなことされました」

「営業全体がこういう意識では困ると言ってほしいのです」

「あの人のカバンがぶつかったの。痛いよパパ」

それは気の毒に。で、あなたはなにか行動を起こしたり策を考えたりしましたか?

自分できちんと防衛していますか?

私ができることはやりますが、なんでも人に下駄を預けるのはいかがかと思います。

自分のために人が怒ったり戦ったりすることで溜飲が下がるのかな?下世話だな。

おおげさかもしれませんが、こういう考えが戦争の種になっているのではと思ってしまいます。

 

書きたいことを書いたらスッキリするかなと思ったら、それほどでもありませんでした。

まあそれも日記やブログの限界なのかな?

 

スローなブギにしてくれ

このタイトルを見て…。

小説を思い浮かべた人、映画を思い浮かべた人、音楽を思い浮かべた人。

あなたはどれですか?それともどれも当てはまらない?

だとしたらちょっと寂しいな。

 

 

 

私、小説も映画も観ていません。でも姉が初めて買ったシングルレコードがこの「スローなブギにしてくれ」だったのが印象的なんです。

どうして買ったのかは今でもわからない。当時、話題にはなっていたと思うけど姉も小説や映画は観ていなかったから。でも案外、運命の引き合わせってこういうものなんだろうな。不条理なくらいに意味のない偶然。

今日はいつになく文体がハードボイルドしていますね。

 

この曲、ホント好きなんです。歌詞とかすっごくキザなんだけれど、曲のよさと南義孝のボーカルがたまらなくて許してしまう。この頃の時代性もあるんでしょうけど、フィクションを平気で歌にできる土壌を感じる。それにはじめから角川映画の主題歌というオファーだったからコンセプチュアルなんです。

 

I want you 俺の肩を抱きしめてくれ

生き急いだ男の夢を憐れんで

I want you あせらずに知り合いたいね

マッチひとつ擦って顔を見せてくれ

人生はゲーム

誰も自分を愛しているだけの哀しいゲームさ

I want you 弱いとこを見せちまったね

強いジンのせいさ おまえが欲しい

人生はゲーム

互いの傷を慰めあえれば答えはいらない

I want you 俺の肩を抱きしめてくれ

理由なんかないさ おまえが欲しい

 

 

作詞家の松本隆が、「生き急ぐ」という言葉を生み出した歌です。

かっこいいね。で、休み休み生きたいですね。

アイデアって何でしょうね? ~再録~

どんな仕事でも、アイデアは大事なんでしょうね。たとえば老舗の寿司屋さんでも、ずっと同じことをやっているワケじゃない。いや、もしかしたら永年続く伝統の暖簾よりもアイデアのほうが大事というかもしれません。

そんなアイデアのお話を…。


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デザイナーというと、いつも新しいアイデアを出すのに苦労しているイメージがあるかもしれません。デザイナーに限らず、アイデアというものがどんな業種でも「出さなきゃいけないもの」と思われがちなのも事実です。

会議で「ジャストアイデアですが…」とか言って話を切り出すと、「むむっ、お主できるな」という感じが出せます。

でもね。ほんっとうにできる人はわざわざアイデアなんか出さないんです、きっと。

「アイデアマン」という言葉がありますが、ノーベル賞をとった人たちで「アイデアマン」がいたでしょうか?彼らは日々の業務を普通にひたむきにおこない、最終的に成果を上げています。アイデアなんてないほうがいつも「本格派」なんですね。


イデアマンとは

逆に「アイデアマン」のイメージはどんなものでしょうか。

突飛なアイデアで企画を大きくジャンプさせる人といったところかな。私の勝手なイメージでは「町の発明好きのおじさん」みたいな人が浮かびます。「この筆箱に鉛筆削りを着けたら便利になるぞ」とか言っていそうな。

私の会社でも年一回「アイデアコンテスト」なるものが開催されています。もう何年も続いていて毎回とても興味深い「アイデア」が生み出されますが、モノになった案件はひとつもありません。成果を上げているのは当たり前ににやっている普段の業務なのです。


イデアは必要です

ではアイデアが要らないか?と言うとそうではありません。普段の業務の積み重ねの中にある「小さなひらめき」こそがアイデア。斬新なアイデアが飛躍的な進歩をもたらすというのは幻想のような気がします。

私の仕事であるデザインにしても一見アイデアがすべてを引っ張っているように見えますが、実はヒアリングと情報の収集・分析が大きなウェイトを占めています。

そして「小さなひらめき=アイデア」を大事にしつつ、最後はアイデアに頼らないデザイン作業が非常に重要になるのです。

私の敬愛するデザイン会社「D-BROS」は、グラフィックデザインを軸にした素晴らしいプロダクトを多数リリースしていますが、アートディレクターの弁を借りれば「アイデアじゃないですよ。デザインです」ということです。それはなんだか逆説的に私には思えるのです。「アイデアが大事だからこそ、デザインをおろそかにするなよ」と。


最後に

ここ数年は「さあ。アイデアを出そう」ということはほとんどありません。とにかくクライアントや消費者のニーズを引き出すことに集中するだけです。そこに「ひらめき」があれば、後になって「ああ、あれが今回のアイデアだったんだな」と思い返したりしています。


よかったらあわせてどうぞ。

hitsuji360.hatenablog.com

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ジャニーズとお笑いの相性

いつからだろう?ジャニーズのアイドルが「お笑い」に足を踏み入れたのは。

私の記憶が確かなら、たぶんその先駆けは「SMAP×SMAP]だと思います。

当時そりゃ話題になったもの。私と同世代のすでに中年の域に入ったオジサンも、「スマスマ」見た?なんて訳知り顔で話していた記憶があるなあ。

私個人としてはまったく面白いとは思いませんでした。特に彼らのコントと呼ばれるものに、モヤモヤした違和感を感じていたのだと。

アイドルがどれだけ奇抜なメイクをしても、おどけた行動をしたって、その下には「かっこいい」というベースがある。なんだか予定調和なんですよね。「痛み」がない。

 

まあ、当時は画期的だったことは認めます。でも、「笑い」って認めるものじゃないから。

さんざん気さくで可笑しいコントやバラエティーを演じたあとで、「ではかっちょいい歌とダンスをお楽しみください」って言われてもなあ。

かっこいいものはかっこいい人が、可笑しいものはそれ風の人がやるから腑に落ちるワケで、同じ人がやれば矛盾として固まる。適性ってやつですね。

まあ、二枚目からにじみ出る可笑しさみたいなものは好きなんですけどね。コントみたいなことではありません。

 

SMAP×SMAP]の放送開始から27年くらい経つのですね。

すでにバラエティーといえばジャニーズが欠かせない状況となりました。ジャニーズとお笑いのセットもすっかり馴染んで、違和感もなにもない。これは先駆者SMAPの偉業かもしれませんね。解散後もCMなんかに引っ張りだこなのは「なんでだろう?」と思うこともありますが、「あの恩恵をみんなが忘れてないよ」ということなんだろうな。

あと、単なる二枚目やダンスのうまさってつぶしが効かないというか、年取ったらどうするの?って問題もあるんでしょう。そういう雇用の問題もクリアするための「お笑い」。芸人さんはどう思っているのかな。

呼び方について

これはたぶん個人的なこだわりじゃないかって思うのです。

抵抗のある呼び方があって、例えば「作業」という言葉を使いたくない、使われたくない時期がありました。

それは仕事について3年くらい目かなあ。それなりに一通りは仕事を覚えて、自分の力でデザインできるようになったころのお話。

なんだか肩に力が入っていて、「デザインでこの会社を、いやクライアントの会社を良くしてやるぜ」と息巻いていました。といってもそんなに実力がともなっていたワケではないので、自分というよりも「デザイン」に過度な期待を持っていたのです。若かりし自分よ、なつかしいなあ。そんな自分は実は嫌いじゃないよ。

 

そんな時代に、自分のやっていることを「作業」という言葉で片付けられたくない気持ちがあったのです。今でもその気持ちは鮮明に覚えています。

なんだか「作業」という言葉は、「単に手を動かす」ようなニュアンスに思えたのですね。「俺のやっていることは確かに手を動かしてはいるけれども、本当は頭の中でイメージを練っているのだ」ということが言いたかったんです。

いや、「作業」という言葉にそんな偏った意味なんてありませんし、勝手にニュアンスを感じ取って鼻息荒くなったってしょうがないのにね。

 

今となっては平気で「作業」という言葉を連発します。だって作業は作業だもの。

でも、そのあたりのこだわりってクリエイティブな仕事をしている人に多いんでしょうね。

単に「ロゴを作る」と言えばいいところを「ロゴの開発をする」といってみたり、「いろいろ作って試してみました」というところを「検証を重ねました」と言ったりね。

まあ言葉にこだわっている間に一つでもいいもの作れよと若い自分にも言ってやりたい気分なんですが。

 

そうそう、「チラシ」というのも抵抗があったことも報告しておきます。「チラシ」とか「ビラ」とか、なんか悲しい気がして。テキトーに撒かれてごみ箱に捨てられるイメージ?

ささやかな抵抗として「リーフレット」と言っていて、それ今でもときどき使っています。オイラもまだまだだなあ。

望んだ未来

この記事は、「同じようなことを書いたなあ」という記憶があったので、探してみたらやっぱりありました。でも表現のしかたが違うとけっこうニュアンスって変わるものですね。中島らもさんが自虐的に「同じネタ、違う出版社で使いまわす事件」を面白おかしく書いていましたが、まあそれも一つの芸にしてしまうたくましさが欲しいところです。さて。

 

昨日のことです。

私は電車の中でスマホを見ていました。

ふと顔を上げると他の乗客全員が自分のスマホを見ています。私はあわててスマホをカバンにしまいました。「俺は違うぞ」ということなのか?自分の行動に訝しくなった昼下がりの出来事です。なんだろうこのバランス感覚。

誰も私の行動なんか見ていないし、興味もない。なのに…。

 

しばらく、自分の思考がわからなくて考えていたのです。

これも前に書いたことなのだけれど、「考える行為」は私にとって「使い減りのしないオモチャ」なのです。特に電車の中なんかずっと考えてる。

 

で、しばらく考えていたらある感情が浮かんできたのですね。

 

「私はこんな未来を望んでいない」

 

そう。たぶん私はそう思ったのです。

電車に乗ったお客さんがみんなそれぞれ自分の世界に入っている。そこには暖かいふれあいはなく、隣で誰がなにをしようが知ったことじゃない。

自分の気に入った人とだけ、小さな画面を通してコミュニケーションらしきものを交わしている。小さなコミュニティで「イイネ」を待っている。

便利になったのはいいことだけど、こんな状況になることを過去(数年前)の自分は望んでいたのだろうか。ぱっと見でさえ、かなり異常な光景に見えたから。

 

いや、べつにケータイ見ているみんなが悪いとか言っているワケじゃないんです。

世間という総体として「本当にこれでいいの?」という素朴で根源的な疑問。

 

この記事に答えはありません。時は戻せないし、戻せたとしてもなにをすべきかもわかりません。ただ「昔はよかったなあ」と老人のようなひとり言をつぶやくだけなんです。