デザイナー羊男の毎日

日常の「気づき」のおはなし。ごゆっくりどうぞ。

日本語っておもしろいなあ ~日本語ツンデレ言葉~

あらためて日本語が好きです。

国語学者金田一秀穂のラジオを拝聴して影響を受けたかもしれません。

まあそれ以前から「日本語の文章を読む」のは私のライフワークであり、楽しみでもありました。といっても日本語以外は全然おぼつかないので、他国の言語と比べて云々ということは言えないのですが。

よく日本語は難しいという話を耳にします。漢字、ひらがな、カタカナが混在するし、アルファベットの26文字に比べてひらがなは50文字あります。表現だって、同じことを言うのにものすごい数の言い回しがある。ただこのあたりを深掘りしいくとキリがないし、先に言ったように他の言語のことはあまり知らないので書かないほうが身の為かな?

金田一秀穂先生の弁によれば「いや、日本語はそんなに難しくないですよ。難しいのはロシア語かな」だって。

デザイナーの視点で言えば、アルファベットしかない英語圏のデザインはスッキリしていていいなあとは思います。でもこれも見た目だけの話で、いろいろ混在している日本語特有の面白さもあります。日本のDTP(デジタルの組版)の発展がめざましいのは、この複雑性を実現したからともいえますね。

 

ああ、ちょっと専門的でつまらない話になってきましたのでちょっと方向転換。

ここからは私の想像の世界なので、何の文献も調べていないし、なんの根拠もないことを最初に申し上げておきます。

 

最近、日本語のツンデレ的な表現が好きだなと思いまして。ちょっと例を出しますね。

 

小憎らしい

この小は、ちょっとだけという意味ではありません。

むしろ普通よりも憎たらしいという意味なのです。なぜ、小を付けた?

この接頭語の小はけっこう奥深いなあと思います。

 

たとえば「スズメバチ」という名称があります。大きくてコワイですよね。

でも名前には「スズメ」という可愛らしい鳥の名前を冠している。大きくてコワいなら鷲とかトンビとかでもよさそうじゃないですか。でも、ここに「スズメ」をもってくることで、リアルな恐ろしさを醸成していると思うのです。実(じつ)があるというか。

鷹やトンビではピンとこないものね。小憎らしいの小にもそんな意味があるんじゃないかなあと。

 

あと、もう一つの説も思いつきました。

小は、卑小とか矮小につながるマイナスイメージを付けたものかもしれない。ちっぽけな人間に対する揶揄の意味。これも案外いい線いってると思うのですがいかがでしょう。

 

こんなツンデレ言葉は他にも…。

・悩ましい(刺激的とか色っぽいの意味)

・愛くるしい(とってもかわいいの意味)

とかとか、今ぱっと思いつかないけどネガティブなイメージをポジティブにジャンプさせる日本語の奥深さですよね。

 

まあ、黒人のスラングでも最高にいいものに対して「bad」を付けるらしいけれど。

こういうのは「良すぎる」と訳せばいいのかな?

 

 

金田一秀穂先生の温かいことば

すみません。記事の掲載順序を間違えてしまいました。もし、お時間ありましたらこれを読んだ後に昨日のをお読みいただきたく。

 

あなたに質問、「金田一」といえば?

「少年の事件簿」という元気な声が聞こえてきそうです。うん、間違いじゃないよ。

ちょっとご年配の方なら「耕助シリーズ」かな?それもイイネ。

 

あと一つ、忘れちゃいけないのが「金田一秀穂」です。

辞書編纂で「金田一」といえば「京助」「春彦」「秀穂」と3代にわたっての文字エリートなんです。お宅の辞書の表紙にもどれかの名前が入っていませんか?

 

そんな言葉のプロ。それも3代に渡っての超名門な方なので、勝手に神格化して「大先生」とお呼びしたくなるのです。

 

そんな金田一秀穂先生、昨日ラジオでお声を拝聴しました。

 

東京FM  /JFN小山薫堂宇賀なつみ)SUNDAY'S POST

日曜の15時からやっていて、日本郵政が提供の「手紙」にまつわる話題を中心にした番組です。(蛇足ながらリスナーからもメールじゃなく手紙が届きます)

いつもほっこりした雰囲気でちょっといい話が聞けます。ドライブ中には最適だし、宇賀なつみも好きでよく聴いているのです。で、昨日のゲストが金田一秀穂先生。

 

大先生らしからぬ、温厚でやさしくて「気のいいおっちゃん風」の話し方。でも端々に「ことばが大好き」「新しい言葉や感覚を取り入れたい」という気持ちがあふれています。若い人の造語にも理解がある。詩人の谷川俊太郎の秀逸さを「洗いざらしのデニムのような」と表現したのは感心しました。

 

そして小山薫堂の「最近、好きな言葉はありますか?」という問いに、すごく暖かいエピソードを語ってくれました。

 

生まれて3か月くらいの赤ちゃんを抱いたお母さんが、わかるはずもないのに

「ここにお店ができたんだね。ちょっと入ってみようか」

と話しかけていたと。そういう何の飾りもないことば。駆け引きも期待もなにもない、ただ愛情にあふれたことば。そういうものに触れると「ああ美しいな」と思います。

 

さすが、金田一先生。運転しながらちょっとうるっときてしまいました。

金田一秀穂先生についてもう一度

先日の記事で金田一秀穂先生のラジオ放送について書きました。

なんだかその後もこの国語学者先生が気になっていて、時間のある時に調べていたのです。代々続く国語研究の大家に生まれてその道を継いだことは知っていましたが、その人となりの背景がわかりました。

 

小さい頃から老成しているといわれて、“諦める、努力しない”が僕の信条と語る金田一先生。

ネフローゼ症候群という病気で小学校時代に長期の入院をして、同じ症状の患者さんが何人も死んでいく。それは努力しないから亡くなるのではないのです。

がんばっても本人の力ではどうしようもない。少し良くなっても次の日にはまた悪くなる…。

 

「努力は何の役にも立たない。無駄だ」。10歳でそう諦観してから、諦めることがちっとも嫌ではなくなったそうです。退院できたのはちょうど薬が発明されたから。ただ運がよかっただけ…。

 

だからご自分のお子さんが勉強しなければいけないとかちっとも思わないそうです。

ただ元気で、運動会に出てかけっこができて、自転車で転んで擦りむいて…。

「ああ、幸せだなあ。」運動会で駆け出した姿を見て涙が出たそうです。

 

現在、金田一秀穂さんのお子さまは高円寺でおだんごの美味しい和菓子を営んでいるそうです。国語学者を継がなかったことは残念でもなんでもなく、「やりたいことをやれて良かった」とたいへん満足そうな金田一先生。

 

そんな国語学者のことばには、何か血の通ったものを感じます。ラジオでも仰っていました。

言葉もいいけれどそれ以上に「気配」というものが大事なんだと。話し言葉には気配があります。手書きの手紙にも気配というものがあるんです。でも電子メールにはそれがありません。リモートも決して気配の伝わりやすいメディアとはいえません。

 

このコロナ禍で言葉が変に強くなってしまったのは事実。私たちのコミュニケーションでは本来、お互いの気配が重要な役割を果たしていたのに、リモートでは言葉だけになってしまう。効率的かもしれませんが、ある意味危険だし、面白くない。

 

いろんな課題がありますので、これからの人に託す部分は多いと考えます。

それでも金田一先生の温かい言葉のように、何か滋養になるものがあれば取り入れてくれればいい。そんな思いでこの記事を書き終わりました。

ほぼ日の素因数分解 ~原寸大動物園~

文字通りほぼ毎日のように、「ほぼ日」を見ています。

 

ビジネスとしていろんな賞を受賞していたり、世間の評価が高く株式上場も果たしていることから、私のようなチンピラが正当な評価ができるわけもありません。だから極力控えめにその魅力を考えて書いてみたいと思います。

 

すごくフラットでリベラルで、老若男女誰もが楽しめるコンテンツをコンスタントに出し続けることは本当にすごいこと。ただし、そこには何か一つの「クセ」というか「味わい」といおうか、ま、とにかくそういった独特の考え方があることは確かなのです。

それは、ほぼ日ファンと言われる人がほぼ一定のトーン(特性)を持っていることからもわかる。

 

その要因は、ズバリ社長の糸井重里にある、ことは間違いありません。

いや、言いきっちゃいけないんだ。そう思われます。

23年も続けているから、すでに糸井メソッドを取り入れたブレーンは育っているはず。彼らが第二の糸井重里としてこれから活躍することも、ここでは便宜的に「要因としての糸井重里」として考えてみます。(彼らにの実力やアイデアはもちろんすごいことと評価したうえでね)

 

どうしてほぼ日がこれだけ魅力的なコンテンツを量産できるのか?

 

糸井重里のルーツをたどるとそこにはコピーライターという職業があります。

それはもう説明も不要なくらい超有名で「時代の寵児」とまでいわれた方ということは、みなさんもご存知でしょう。

 

コピーライターという職業は、「なんかうまいこと言う仕事」として認知されている方が多いのでは?実際に世間に表出するのが「コピー(文章)」というカタチなのでそう思われるのも仕方ありません。。

でも、そんなキラキラした仕事でもないのですね。もちろん、キラキラした部分はあるし、そこも大事な面ではあります。

ただし、そこ(キラキラ)に行きつくまでには、調査や視察、インタビューといった地味で地道な作業が存在しています。

そしてコピーライターのもう一つの側面として、商品の見せ方を企画するということがあります。今まで一般の人々が考えもしなかった使い方や切り口を見つけてプレゼンするということです。そして時には商品開発自体にも参画する。

こういったことを最終的には「ことば」に落とし込むのがコピーライターという職業なのです。

 

私が考えるに、糸井重里氏は言葉(コピー)になる以前の工程をコンテンツ制作に活かしているのではないかと。ほぼ日サイトにも「コピー」のようなものがたくさんありますが、それらを素因数分解したものがコンテンツになっていると感じたのですね。

 

先日まで渋谷パルコでおこなわれていた(見逃した!)展示もそうです。

「原寸大動物園」

動物のイラストを人気のイラストレーターが描いて展示する。

でもそれだけじゃつまらない。そこに「原寸大」というワードが入ることで、コンテンツはぐっと面白く興味深くなります。キリンやクマが原寸で…。

想像するだけで見たくなりませんか?こういう企画の手法は意外と他ではやっていないのでほぼ日の独擅場になるのかもしれませんね。

 

やっぱすごいな、ほぼ日。

人はリスクを嫌うもの 黒ひげとワニ (再録)

いつぞやに書いた記事を再度掲載いたします。

それほど気に入っている記事というワケではありませんが、な~んとなく日曜日にあくびでもしながら読むのにいいかなと思いまして。

 

 

これ、知ってます?

オモチャなんですが、ゲーム要素が強い「黒ひげ危機一髪」です。私が子供の頃からありますが、今でもほとんど形を変えずにあるのですね。似たようなので「いたいワニ」というのもあります。ルールはまったく同じ。

 

要するに、「どれか一つを選んで、失敗すると痛い目に合う(負け)」というゲームなんです。

黒ひげ→ある一か所、剣で刺すと黒ひげ船長が飛び出す

ワニ→歯のどれかを押すとガブっと噛みつかれる

 

ワニのほうが実際の痛みを伴うので、ドキドキ感は上なのかな?

あ、でも剣で刺すのも道具立てがあるのでそれはそれで…。

さあ、あなたはどっち??

 

共通点はリスク

で、この2つの共通点が「人はリスクを嫌う」ということに根差していることなんです。古株は「黒ひげ危機一髪」で、もともとのルールは逆でした。

そう、なんと剣を差して黒ひげ船長を飛び出させたほうが「勝ち」というルールだったのです。そういえば、そのほうがストーリー的にも整合性がありますよね。

でも、それではあまりドキドキしないのです。

「やったあ!」よりも「しまったあ!」というあの感じが心に響く。実感としてなんとなくわかりますよね。

 

成功よりもリスクを回避するほうを選ぶ傾向

サイコロをふって「10000円儲かる」もしくは「5000円とられる」というギャンブルがあったらどうしますか?出目の確率は50%とします。

普通に考えたら条件的には有利なはずです。負けても半額なのです。パチンコや競馬よりもよっぽど率がいい。でもほとんどの人は賭けないでしょう。

そこにはもともと人が持っている「損をしたくない」「失敗をしたくない」という感情が働いているのですね。これは極端な例ですが、似たようなことはけっこうあるような気がします。

 

デザイン案も慎重に

デザインの案出しを複数提出することがあるのは前に書きました。私としては「冒険だけどすごくジャンプする可能性のある案」を意図的に入れています。ざっくり見て10%満たないくらいですね、これが選ばれるのは。理由は、「おもしろいけど、リスクがあるから」「あんまり見たことがないのは不安だ」というものです。

その気持ちは私もよくわかるので「あ、そうですか。ですよね。」とあまり深追いしません。「では他の会社様にご提案しようかな」とつぶやくと「あ、ちょっと待って」というような目で見られます。まあ、いろんな立場があるのでしかたないのでしょうけど、リスク回避ばかりでも前に進まなかったりしますから難しいところですね。

コース料理とコンサート

コース料理なんて滅多に食べられないものでしたが、外食感が得られることから最近増えているかも。まあその分リーズナブルな外食を控えるようになりましたね。

だからプラマイゼロ(むしろマイ)でいいんです。

特別な食事にお金を払ったほうが意味があるということですか。コロナでお金の使い方も考えるようになったなあ。

コースと言ってもせいぜいランチなので、平均すると3,000円くらいかな。

二人で6,000円。おっと、けっこうな出費ではありますが「今まで節約したから」という自分へのご褒美にちょうどいいのかもしれません。なにか「いいこと」がないと日々の生活がつらくていけない。

 

で、先日は自由が丘でカジュアルフレンチのお店を訪れました。

プティマルシェ
〒152-0035 東京都目黒区自由が丘1-25-22 ギャラクシービル 2F
r.gnavi.co.jp

そんなに肩ひじ張るような雰囲気じゃなく、こじんまりした気軽に入れるフレンチレストラン。でもちゃんと、オードブルから始まってスープ、サラダ、パン、メイン、デザート、コーヒーと給仕されるし、フォークやナイフもテーブルクロスにたくさん並んで気持ちが上がります。

 

でね。コースを食べてて思ったのですが、単品では味わえない立体的なおいしさみたいなものを感じるんです。だいたい外食のアラカルトって味付け濃くするんですよ。それだけで満足できるようにだと思うのですが。

でもコースだと、ちょっと淡い味からの濃厚ボリューミーみたいな変化が作り出せる。シェフが音楽を奏でているようなと言えばキザかな?

 

そういえばコンサートもそうだ。いつもはヒット曲しか聞かないアーティストでも、つなぎで聴いたときに感じる奥深さってあるもの。

普段聴く音楽だって配信でつまみ食いするんじゃなく、アルバムでも聞きましょうよ。そんなスローライフも悪くないと思うんですよね。

叱ること、教えること

長年同じ職場で働いているとそれなりに「人に教える立場」になります。

それは一般的な会社もそうだし、コンビニやファミレスのアルバイトでもそうかもしれない。私はデザインというちょっと特殊な仕事に就いているつもりでいましたが、どんな仕事でも「教える」というのはややこしいものだと思います。

教え方といえばよく「叱る」と「怒る」の違いについて言われますね。

 

「叱る」は相手のことを成長を思って注意やアドバイスすること

「怒る」は自分の感情にまかせて相手を叱責すること

 

子供の教育でもよく言われることですが、実際にはそんなにスパッと割り切れるものじゃありません。人間だもの、感情だってあるしすべて理想的にはいきませんよ。

ただ自分的に気を付けているのは、いろんなことを持ち出したり人格を否定するような言葉を使わないということです。

 

教えられないこともある

これ、教えている人なら感じませんか?教えられないことのほうが多いと思うことも。テクニックや操作手順みたいなものなら大丈夫ですが、経験や思考を重ねることでしか得られないものは確実にあります。

 

自分で見つけないと結局のところわからない

そして、人に教えられたことはそのままでは定着しないのです。だから、教えるというのは「自分で見つけさせる」こととも言えます。自分で見つけたことは、腑に落ちているので応用が利く。応用が利かなければ本当の意味で「覚えた」ことにはならないのです。

私が人になにか教えるときに、もう一人の自分が俯瞰して見ていることがあります。

驚くほど大してことは言っていません。そう、たぶんですが大したことなんか言っちゃいけないんだと思うのです。

 

できるまでやる

そして、結局はこれなんです。これは何度も書いていますが、どんなことでも「できるまでやればできる」のです。逆もまた真なり。できないのは「やっていない」ということ。そんな時ですかね。「叱る」のは。

 

私のような未熟者でも、経験則としてこんなことを考えて行動してきました。

もし、何かの参考になりましたら幸いです。

 

ffc.tokyo