ずっと続けていることってありますか?
いや、努力してとかそういうことじゃなく、「甘いものを食べてるよ」でもいいんです。煩悩の末に続いていることでさえ、私には尊いものですね。継続するってすばらしい。私はあまり物事に執着がないのか、続いたものって本当に少ないです。
あ、ここでは仕事である「デザイン」は除外しています。これを言うと違う話になっちゃうので。それ以外で…。
そこそこ見通しがつくと、分かった気になっちゃうのが困りもの。ホントは何もわかっていないのに。まあ、そんな自分と50年以上つきあってきたのだから「仕方ないかな」とも思えるのですが。
毎日読んでる「ほぼ日」
そんな私でも、毎日続けているのが「ほぼ日」の購読。しつこいようですが、努力して続けているものではありません。なんとなく習慣になっているし、コンテンツが私好みだから。そして毎日更新しているので情報が新しいことも大きな要因でしょうね。
糸井さんの目論見どおりなんですけど。
そう、糸井さんの目線をいつも気にしているというのが正確かもしれません。
「あのおじさん、今なに考えてるのかな?」
というのがいつも気になる人なんですよね。
それは、コピーライターだった頃からだから、けっこう長いあいだ気にしているワケです。
実はコピーはそんなに好きじゃない
こんなこと言ってどうするの?という感じですが、いわゆる名作コピーは「すごいね」とは思うけれどそんなに好みではないのです。彼のすごいのはコピーライターの認知を高めたこと。そこに尽きますし、それこそが彼の偉業なんだと思っています。
ではなにが好みじゃないのかといえば、「作家性が出すぎてる」という…。ご本人は消しているつもりでもどうしても「糸井さんのにおい」があります。
まあ時代の寵児だったので、しかたない部分もあるのでしょうが。
私の好みは「どこがってわけじゃないけど、なんかいいよね」という引きのコピーなのかな。
有名なコピーライターで渡辺潤平さんっているのですが、「えっ?これがコピー?」というような、なんでもない言葉たちがすごく記憶に残る不思議な人です。
たぶんコピーライターの職域が広がって、デザインや企画を含めたクリエイティブになったことの証なのでしょう。
話は糸井さんに戻って
ということから、糸井重里氏の現在のお仕事もなんだかコピーライターの延長になっているような印象を受けるのです。表現のしかたが変わっただけのような気がして。
ほぼ日手帳も、アースボールも、ドコノコも、そしてたぶん今企画中の「言葉のレゴブロック」もかなり彼の表現によるところが大きい。
「生活の楽しみ展」はもうじき新宿で開催されますね。これも「コロナへの接し方を糸井さんがどう考えているのか」を理解するヒントだと勝手に推察しています。