他の方の記事で、「教育の行き届かない発展途上国の子供たちに学校の存在を教えて、そこに行きたいかどうかをインタビューする企画」を論じているものがありました。
たしか、「それは行きたいにきまってる。でも経済的または家庭的事情で、あったとしても行けない子供たちも存在する。そんな子供たちに学校の存在を教えたらかわいそうだ」という内容だったかと。それはそうだと私も膝を打ちました。
幸福を知るまでは不幸ではない
なんだか皮肉めいた言葉が浮かんできました。上の例でいえば、学校の存在を知らなければ水汲みや兄弟の面倒を見る仕事に日々没頭していたのでしょう。
ここ2年ほど高下を繰り返しているコロナ禍で、街の風景はマスク混みのものになりました。幼稚園に入園する前の小さな子供が当たり前にマスクをしている姿を見て「えらいなあ」と感心する私ですが、よく考えると彼らは生まれたときからそんな状況なワケです。親からしたら「かわいそうだけど、しかたないよね」ということでしょう。
そんな幼児に「マスクのない自由で素晴らしい日々」を教えたほうがいいのか?
これは悩むところではあります。たぶん、コロナはいつか収束するから望みを持って生きたほうがいいとは思いますが、絶対とは言い切れないし「いつまで?」がわからないからなあ。
結論が出ない話題
これは結論の出しづらい話題だと思います。
学校の存在を知っていれば、成長して大人になった村民の誰かが学校を作るのかもしれない。
マスクを嫌がる子供にその意味を教えるのに、「普通の生活の素晴らしさ」は不可欠かもしれない。
そう、かもしれないなのです。ただ、それを「相手の立場に立って愛情をもって言ってあげられる」なら話は別で。でもやっぱり無責任にいうべきじゃないなと考える私です。
日々の暮らしの中で
規模は小さくてもこんな例はいくらでもあるでしょう。
逆に立場が悪化して「ああ、あの時は幸福だったんだなあ」と思うこともありました。幸福も不幸も絶対的なものではなく、相対的に成り立っているのかもしれませんね。あいつにくらべたら‥ あの頃にくらべたら‥まだおれは幸せだとかね。
今回は(いつもそうだけど)結論が出ないままに終わろうと思います。