デザイナー羊男の毎日

日常の「気づき」のおはなし。ごゆっくりどうぞ。

グルメってなんだろう② ~しつこく考えてみました~

昨日、同じタイトルで書いていたのですが、あらためて考えると「おいしい」って不思議な感覚だなと。もともと「生きるために食べている」のに、なぜか娯楽の要素が入り込んでいます。中には「食べるために生きている」人もいるくらいです。

実に興味深い。

ちょっと「食べる」関係の記事が続きますが、もう少しだけ考えてみましょう。

 

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味覚は経験値

前の記事でも書きましたが、小さい子供に好き嫌いが多いのは味覚が鋭敏だからという説があります。

hitsuji360.hatenablog.com

年を取るにしたがって衰えはしますが、それを超える「学習」や「鍛錬」によって食通を維持する人もみえることでしょう。

 

「味覚極楽」という本を書いた新聞記者が、極寒の冬にある高僧の庵を訪ねた話。

「お茶がわりに」と風呂吹き大根を出された記者。昆布を敷いた上に軟らかく煮た大根の熱々のところに生醤油を垂らして食べるという「もてなし」を受けます。もちろんおいしくないわけはないのですが、この大根は煮る際に包丁を使わず手でポキポキと折って入れるのだそうです。「金属のイヤな味が大根に移るのを防ぐ」ためということを聞くと、味覚の鋭さに感嘆するとともに、「それははたして幸せなのか?」と疑問も生まれます。

 

ここに書かれているような「味覚の鋭さ」みたいな話は面白いのですが、限界があるでしょうね。

味覚は結局のところ、「それまで食べてきた経験」からおいしいかどうかを判断せざるを得ません。自分の経験を書くのは恐縮ですが、私の母親は実に質素で倹しい食生活を実践していました。でも、昔肉屋で働いていた関係で肉には目利きだったようです。あとお茶とバターだけはなぜか安いものを使わなかった。

今の私の味覚はそのルーツをもとにできています。そしてその後、外での食事で経験値を増やしてきました。

今食べたA定食がおいしいか?は今まで食べてきたものの中でどれに近いかを無意識に辿っているのだと思います。だから、はじめて食べるものに「おいしい」はあり得ないし、食べた料理の総量が食通を作っているといえそうです。

これが私なりに考えた「おいしい」のしくみです。

 

暖かさもおいしさ

また自分の話ですが、私は基本的にあたたかいものが好きです。中島らもと同じ「ほかほか症候群」。冷やし中華の魅力が未だにわかりません。冷たいものを食べているとなんだか悲しい気持ちになってしまいます。だからスイーツにアイスがついているのがちょっとイヤなのです。あれは、「溶けて形がかわってしまう前に食べなきゃ」という切迫感みたいなのも原因かな。ちょっと話がそれました。

でも、あたたかいってだけで「おいしい」と感じるのは本当です。自分の体温を維持したいという意識が働くのでしょうか。

 

満腹感と満足感

40代後半から、あまりたくさん食べたいと思わなくなりました。

それまでは、「満腹感もおいしさのうち」と本気で思っていましたし、定食屋に行けば食べ応えのあるメニューを選び、可能なら大盛りを頼んでいました。あの「ちょっと食べすぎたな」という感覚が快感でもありました。

今はそれも罪悪感に名前を変え、そもそも「たくさん食べたい」気持ちもなくなりました(それでもたまにバカ食しますが)。「足るを知る」の意味がようやくわかったのですね。今は満腹感よりも満足感を優先します。満腹になってしまうと、罪悪感により満足感がなくなってしまうので。

 

グルメの要(かなめ)はアウトプット

そしてタイトルに戻ります。

グルメを名乗るのであれば、インプット(味覚)よりもアウトプット(表現)が大事なのではということです。食の経験値を増やすにはそれなりの年数もかかりますし(せいぜい1日3食くらいだから)、経済的にも大変です。デブにもなるしね。

それよりも現実的なのは「どれだけリアルでイキイキした表現ができるか?」。

そこがグルメの生命線なのかと。

まあ、裏付けとして食に対する愛情が見えなければ説得力はありませんがね。

 

一応、こんな結論にたどり着きました。ふう~、ご飯たべよっと。