昨日の記事でスポーツのことを書いたら、こちらも気になりました。
パラリンピックです。聞くところによると、実は1960年から続く歴史のある大会だそうで(オリンピック17回大会時に発足)。2020大会の呼称としてオリンピックと並べて表記するのがマストである、重要なはずの大会です。これがなぜにこれほど盛り上がらないのか、考えてみようと思います。
メディアの露出が少ない
どんな競技があって、どんな選手がいるの?ということさえまったくわかりません。
これは、テレビなどのメディアが取り上げていないからです。私たちのような一般人が大会のことを知るにはメディアでの露出が不可欠なのですね。なぜ取り上げられないかというと、まず考えられるのがIOCへの放映権料です。オリンピックで莫大な放映権料を支払い、さらにとなると企業も及び腰になります。「卵とニワトリ」ではありませんが、露出がないためにマイナーとなっているパラリンピックに広告効果があるのか、企業が一番に考えることだと思います。
ルールが複雑
一口に障害と言っても、程度はさまざまです。片足が不自由な人、両足が不自由(車いす使用)な人、視力の弱い人などでレギュレーションをどう分けるか?ということで競技を成立させるためのルールは複雑化していきます。それを何の知識のない観客が見ても頭に「?」が浮かぶのでしょう。これは仕方のないことですが、そもそも「分かりやすくする」ための啓蒙や工夫がまったくないというのが問題だと思います。ただ一つ、清水建設のCMで「ボッチャ」の紹介があったのは、企業の良心を見た気がしました。
センシティブな問題
ここからは、少し書くのに勇気が要りますが…。
たまに24時間テレビなんかを観ると、「こんなに障害を抱えた人が多いんだ」と驚きます。たまたまかもしれませんが、私の周りにあまり見えないからでしょうか。
たまにショッピングセンターなんかですれ違うときに、思わず目をそらしてしまう自分がいます。なんだか「ジロジロ見ると悪いかな」という意識があるのかもしれません。
そんな意識はたぶん私だけでなく障害者でないみなさんのなかにもあって、パラリンピックを観ることに抵抗感があるのでは、と思います。
そんなことは健常者のおごりであり、甚だしい勘違いかもしれません。定められたレギュレーションの中で、「とんでもないスゴイこと」をやっている彼らを素直に観覧するのがあるべき姿なんだと。
それには、ある程度の啓蒙活動が不可欠ですよね。問題のない範囲で、障害者の方とのコミュニケーションがとれる機会がもっとあってもいいかなとも思います。
ボランティア活動などほとんどしていない自分が生意気なことを書きましたが、スポーツ関連の企画があまりにも行き当たりばったりなのが目に余ってしまって。
やるからにはきちんと盛り上げましょうよ、パラリンピック。
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