デザイナー羊男の毎日

日常の「気づき」のおはなし。ごゆっくりどうぞ。

ブログの文章について思うこと

息をするように文章が書けるようになると「書く」という行為の意味が違ってくるんだろうな~と最近思います。これはブログに限らずですが。

 

文章のスタイル(文字数)

はてなブログのブロガーさんは、長文の方が多いですね。まあ、全体的な印象なのであまりはっきりとは言えませんが。

たぶん、それぞれ「自分がしっくりくる長さ」があるのだと思います。

私の場合1000文字前後が、過不足なく言いたいことが言えて適度な達成感がある量です。ときにはTwitterみたいに短文で要点をスパッと言いたいときもあります。

Twitterがここまで広まって定着したのも、なんだか納得がいきますね。

 

ノッて書いているとき

書いていて「楽しい」と思うときは、気分がノッていて内容もそれなりに良かったりします(自己採点)。

あとテーマがきちんとまとまっていたり、複数の小さなテーマに関連性があったりすると筆の進みがいいようです。実際は筆で書いていませんが。江戸時代か。

今書いたような(江戸時代かみたいな)自分ツッコミが出るときは、ちょっとノッてきた感じですね。あまり他のブログで見ないのですが、もしかしてイタイ行為なのかな?まあ、これが私の生きる道なのでしかたないですね。すみませんが我慢してください。

 

前にも書きましたが、ネタのストックや下書きから始めると早めに筆が止まります。書いている途中で「印象的なエピソード」が見つからないとつらくなったり。

よほどネタの質がいいときは別ですが、要件を書いた時点で気持ちが終わってしまうんです。こういうのは思い切ってTwitterみたいな短文でサクッと終わらせるのもいいかも。メリハリつけて続けるのもアリですよね。

 

昔話の再話

他の方の書いた記事で「昔話の再話」を趣味にされているというお話を読み、非常に感銘を受けました。要約すると…

昔話は耳で聞かれることにより残ってきましたが、昔話独特の法則と語り口と構成があるそうです。(現在では、本を読んであげることが主流)

語り手のテンポで最後までストーリーを進める「音楽」のようなこの文芸は、文字で書かれたものと違い「耳で聞いた」昔話の語法の美しさがあり、これを後世に伝承していこうという、誠にすばらしいご活動です。

確かに文字の歴史よりも「語り」の歴史のほうがはるかに永いのでしょうし、興味深い文芸だと思いました。

私もレベルの差こそあれ、「話すように書く」を一つのスタイルとしています。

〜です・ます と 〜である・だ が混在することもあるし(乱調)、ときには文章のつじつまよりも語感やリズムを大事にすることもあります。

 

文章は人を映す鏡です

この見出しで書き進めていたら、偶然にも「ほぼ日」で糸井重里氏が全く同じ言い回しをされていてちょっとヘコみました。でも続けます。

 

 私はデザインを生業としていますので、様々な人のイラストや写真そしてデザインを見る機会が多いです。そんな中、「デザインは人柄を映す」と感じることが多々あるのです。やさしい人はやさしいデザインに、内向的な人は内向的デザインに、よく気の付く人はそんな風合いのデザインになっている。これは狙ってそうしているワケではなく、「そうなってしまう」というのが正しい、と考えています。

最近ブログを初めて、人の文章を読む機会が増えました。読書が趣味ですが、同じ作家のものを読むことが多かったので新たな発見があります。

 

それで思ったのが、「文章も同じで、人柄を映している」ということ。

余計なことは考えず内容を拝読すればよいのですが、やっぱり気になりますね。とくに年齢を重ねると、無意識に「この人はどんな人なんだろう」ということを行間から読み取ろうとします。

もちろんこれは読む側のお話であって気にする必要は微塵もありませんし、気にしたところで簡単に変えられないものです。

 

私の文章も、今までの人生が反映されたものだと思うと多少の愛着も湧こうというものです。こんな文章ですが、これからもお付き合いいただけたら幸いです。